Dayananda Saraswati
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人間の子どもは産まれると とても長い間 消費者であり続けます 自ら社会に貢献することはできません 無力で どうやって生き残るかさえも知らない 生きための本能を与えられてはいるのだけれど 生き続ける 母親や乳母の助けが必要です 面倒を見てくれる人を疑うことはできません 完全に自分の身を明け渡さなくなくてはいけないのです 私たちが麻酔医を完全に信頼するように

完全に身を明け渡さなくてはならないのです それには 信用が必要です 信頼のおける人間が必要だということです その信頼を裏切ることはない人物 成長するにつれて 子どもは気づき始めます 信頼していた人間が その信頼を裏切っているということを 子どもは裏切りという言葉さえ知りません だから 子どもは自分を責めることになるのです 無言の裏切り それを真に解決するのは さらに困難になります 無言で自分を責めるのです

子どもが成長し大人になると それまでは ただの消費者にすぎなかったのですが しかし 人間の成長というものは どれだけ貢献できるか 貢献者になれるかということなのです 貢献をするには 自らが安全であり 自らが偉大であると思い 足りることを知る 必要があります

思いやりをもつことは 取るに足りないことではありません そんなに簡単ではないのです 自分の中に存在する偉大さを感じなくてはならなりません その偉大さは自分自身を中心にしていなくてはなりません 金銭ではなく 振りかざす権力でもなく 社会を自在に操ることのできるどんな地位でもない しかし 自分自身を中心としなくてはならないのです あなた自身が意識している 自己 その自己の上に 中心 偉大 全体であらなければならないのです そうでなければ 思いやりとはただの言葉で 夢にすぎません

時に 同情するよりも 共感することで 思いやりを持つことができることがあります 私たちが共感できることは幸いです ある人が痛みを感じていたら 痛みを感じることができます

ウインブルドンの決勝戦で 二人の選手が戦っています 二人の選手はお互い2ゲームずつ取っており どちらが勝つか 予想はできません これまでの努力は意味をもたないのです どちらかの選手が勝つ 二人の選手はネットに近づいて 握手する それがテニスの決まりになっています 勝者が観客をとりこにし 地面にキスをし まるで誰かが彼のシャツを待ち望んでいるかのように シャツを投げる (笑い) そして 勝者はネット間際に来なくてはならなりません 勝者がネット間際に来たとき 彼の表情が変わります まるで 自分が勝たなければよかったのにという顔をします それはなぜか? 共感です

これが 人間の心というものなのです 人間の心を持っていれば 共感を否定することはありません どんな宗教も洗脳で思いやりを人間から追い出すことはできません どんな文化 国家 愛国心も 人間の共感を変えることはできないのです それこそが共感なのだから 他人の気持ちを理解する能力とは 人に救いの手を差し伸べるための窓口でもあります あなたが何か 人の人生を変えることをする (人生以外に)言葉でさえ 時間でさえも

思いやりは 一つの定義があるわけではありません インド人だけの思いやりというものはなく アメリカ人だけの思いやりというものもありません 人の心を思いやることは 国籍 性別 年齢に関係ないのです なぜか?それは誰にでもあるものだからです 時に 他人の思いやりを体験することがあります

では この度々行われる思いやりとは 私たちが今考えている思いやりのことではありません それは 時々起こる というものではないからです 強制で 人を思いやりのある人にすることはできません 「私を愛して下さい」と言うことはできません 愛とは、あなたが発見するものだから 愛は行動の一つではないのです しかし 英語では 愛とは行動でもあります それについては後で話しましょう

人は、全体性というものに気付くはずです 全体なものになる可能性について話しますが それは私たちの体験の中にあり、すべての人間の体験の中にあるのです どれほど ひどい人生であっても ほんの希には幸せになることがあります 幸せである人は たとえ それがドタバタ喜劇であったとしても 自分と 自身の中にある自身のあり方を受け入れるでしょう

宇宙全体を 既知であろうと 未知であろうと それらすべてを完全に受け入れるということです 自分の中に 全体性を見つけるからです 主題 つまり私 そして目的 つまり物事のあり方 すべてが一つになり 誰も「私は否定されている」と言わないようになるのです それは 誰にとっても当然のこととなるのです

それによって 誰にもある制限 欲望、熱望、満たされない思い、クレジットカード そしてレイオフ(一時解雇) そして最後にハゲ それらにも関わらず、あなたは幸せだと思えるのです この論理を延長すると 幸せになるためには欲望を満たす必要はないことになります あなた自身こそが あなたが欲している幸いであり 全体であるからです

ほかに選択はありません 全体は 正にあなたであり あなた以下のものではあり得ない という事実を 再確認できます それはあなたでなくてはならない あなたは全体の一部なのではなく あなたが全体なのです あなたが幸せだと思う一瞬一瞬によって その現実 その実感 その認識が新たになります 私は全体であるのかもしれない スワミは正しいかもしれない

スワミは正しいのかもしれない そこから新しい人生が始まります そうすれば すべてが意味のあるものになる 私には自分を責める理由がない 自分を責めなければならないなら 理由は百万でも思いつくでしょう 自分の体が制限されているにも関わらず 黒であれば白ではない 白であれば黒ではない どちらから見るかによって 身体は制限されています

あなたの知識は制限されている 健康も制限されている だからパワーも制限されていて 陽気さも制限されてしまうでしょう そして思いやりも制限されてしまうのです すべてが無制限になろうとしています 人を思いやることができるのは あなたが制限を取り払ったとき そうすれば誰もが制限を無くすことができる 無くせるか 無くせないか それだけなのです そして 人は制限を取り払わずにはいられない

あらゆる制限に関わらず 経験によって 人は自らが全体であることを知ります あなたが世界と向き合うとき その全体こそ あなたの現実でもあるのです まず 愛があります あなたが世界と向き合うとき その全体が 活き活きと現れるものこそ 私たちが愛と呼ぶものなのです あなたが向き合った対象がその感情を呼び起こしたのなら それこそが思いやりとなるのです そして 与えること 共有することに姿を変えます 思いやりがあるからこそ 自らを表現するのです

思いやりを発見するには 思いやりのある人間になる必要があります 与え 共有する余裕を見つけるためには 与え 共有しなければならないのです 近道はありません 泳がないで泳ぐことはできません 泳ぐことで泳ぎを学ぶのです マットレスの上で泳ぎを練習してから 水に入ることなどできないないのです (笑い) 泳いで泳ぎ方を学ぶ 自転車に乗って自転車に乗れる 料理して料理を覚える あなたの料理を食べてくれる 思いやりのある人間に囲まれていれば (笑い)

だからこそ私は できなくても始めてみなさいと 言いたいのです (笑い) そうする必要があるのです 先人が言っていました まず 態度に表さなければならない 思いやりを態度に表さなければならないと

思いやり(compassion)の動詞は英語にはありません しかし 副詞があります これは面白いと思います 思いやりをもって(compassionately)行動する でも 思いやりがないのに どうやって行動すればいいのでしょう まず やってみるのです できなくても始めてみる これこそが米国の信条なのです (笑い)

とにかく始めてみる 思いやりがあるかのように 思いやりをもって行動する 歯をくいしばって あなたが持ってるすべての力を振り絞って どうやって祈るか知ってますよね 思いやりを授かるように祈って下さい 思いやりのある人間になれますように やってみて下さい あなたは自分の中に思いやりを見つけるでしょう そして少しずつ 思いやりに似たようなものが 正しい学び方をすれば 少しずつでも見つけることができます 思いやりとは あなた自身の活き活きとした描写であり 単一性であり 全体性であり あなたそのものである ことに気付くでしょう

ここまでにいたします ありがとうございました (拍手)