皆さんの中にはこの話を聞いた事のある人もいるでしょう でも中には全くこの話を聞いた事のない人もいます 今聴衆の皆さんを前にして 普段この話をするときよりも ちょっと緊張しています 私は以前 長い間写真家をしていました 1978年 働いていたタイムマガジン社から アメラジアン人の子供達を撮影するようにと 3日間の仕事を割り当てられました 東南アジア全域に住む アメリカ兵を父親として生を受け 捨て子となった子供達のことです アジア全域にいる4万人もの子供達 私はアメラジアン人という言葉を聞いたことありませんでした 様々な国で2,3日 たくさんの子供達を撮影し 多くの写真家や記者のように 自分のとった写真が掲載される時には 実際にその状況に影響を及ぶことを常に願っていました ただ記録のためだけではなくてです
私が目撃した衝撃的にものに対して 実際に掲載された記事にはかなり不満でした それで半年間の休暇をとることにしました 28才のときでした 様々な国で6人の子供達を探す事にして 実際にその子供達としばらく時間を過ごし 以前タイムマガジンで行ったよりも もうちょとよく彼らの物語を伝えようと決めました その取材の過程で 写真に取られていない子供達を私が探していると パールバック財団が そういった子供達を助ける為に献金してくれている 沢山のアメリカ人がいると教えてくれました そして韓国のパールバック財団を運営している男性が おばあさんに育てられている11歳の少女の事を教えてくれました しかしそのおばあさんはどんな西洋人にもその子を会わせようととしない 西洋人が町に来る度 少女を隠してしまうのです そして勿論 すぐさま私はこの話に興味をそそられました 彼女の写真を見て そこに行ってみたいと思いました その男性は私に言いました「無理です お話した通りこのおばあさんは 決してその少女に会わせないでしょう
私は通訳者を従えてその村に入り そのおばあさんと会うことができました 驚いた事に 彼女は私に 孫の写真をとることに同意してくれました それで私は自腹をきって行動していたので通訳者に 一週間 私がをそこにとどまってもいいかどうか聞きました 私は寝袋を持っていました 家の隣に小さな倉庫がありました だから「毎晩、寝袋で寝てもいいですか?」と聞いてみました そしてそのイ・ヒョンスク という名前の少女に告げました もし私が何か彼女を当惑させるようなことをしたらー 見た目はアメリカ人でも全く英語は話しませんでしたが 彼女は手を挙げて「ストップ」とは言うことができました すると 私は撮影するのをやめたものでした その後 私の通訳者は帰りました 困った事に私は韓国語をひとことも話せませんでした これが私がイ・ヒョンスク に出会った初めての晩です 彼女の母親はまだ生存していました 母親ではなく祖母が彼女を育てていたのです そしてこの二人がお互いにどれくらい 愛し合っているかに すぐに私は感動しました そのおばあさんの愛情は大変深いものでした 彼らは夜には床の上で眠りました 韓国では床の下にレンガを置くことで家の中を暖めていて そうすると熱が床下で広がってゆくんです ヒョンスク は11歳でした
私はこういった子供達を沢山撮影していたと言いましたが ヒョンスクは 実際に私が撮影した5番目の子供でした こういったほぼ全ての子供達は からかわれ いじめられ 無視された経験から 精神的にとても傷ついていました また韓国はこういった子供達には最悪の 場所のようでした ヒョンスクとの出会いの中で 私が即に感銘を受けたのは 彼女がありのままの自分でいることに 自信を持ち 幸せそうだったことです この写真を覚えていてください 後で別の写真を見せるつもりですので いずれにしても彼女は西洋人の容姿をもつにも関わらず おばあちゃんにそっくりなのがわかりますよね 私は彼女の学校までついていくことにしました これは最初の朝です これは通学途中です これは学校での朝礼です 彼女がふざけまわっているところ 先生が質問をした時 彼女は真っ先に手を挙げていました ほんとうに彼女は恥ずかしがりやでも内気でもなく それまで撮影してきた他の子供達とは全然違っていて まっさきに黒板に答えを解きにいく生徒でした 授業中 彼女の親友の耳にささやくことが 問題となっていました そこで 通訳を通して彼女に伝えたことのひとつにー あの「ストップ」といってくることについてなんですがー私に注意を向けない様に言いました 彼女は私を完全に無視しました 休み時間に気がついたのは 彼女こそが 他の女の子達を選びチームにいれる張本人だということ 当初から彼女がリーダーなのはとても明白でした これは帰り道で この丘のあたりは北朝鮮です ここは非武装地帯です 人々は毎晩 窓を覆って光がもれないようにしていました 韓国政府が 北朝鮮がいかなるときでも 侵攻してくるだろうことを警告していたからです ですから北朝鮮に近づけば近づくほど ますます恐怖が増すかんじでした
学校では私が撮影していると とても頻繁に 彼女が女友達に耳打ちをし それから私をみて「ストップ」といいました そうすると私は気をつけの姿勢をとり 少女達は大笑い それはある種のちょっとした冗談みたいでした (笑い) その週の終わりに通訳者に戻って来てもらい その週の終わりに通訳者に戻って来てもらい やっとヒョンスクとおばあさんに正式にお礼を伝える事ができました そして おばあさんが通訳者に話している途中で おばあさんは泣き出しました そこで私は「どうしたの なぜ彼女は泣いているの?」と通訳者に聞きました 通訳者は少しの間おばあさんに話しかけ するとその後 彼女の目にも涙が浮かび始めました そこで私は言いました 「えっと 私が何をして 何が起きていて なぜみんな泣いているのかな?」 すると通訳者が「このおばあさんは自分は 直に死ぬだろうといっています。 ですから 貴方がヒョンスクをアメリカまで一緒に連れて行ってくれるかどうか知りたいんです。」 そこで「私は28才で ホテル住まいで 結婚はしていません」といいました 何ていうか私はこの少女に恋をしてしまったのですが 感情面では私は12才くらいな感じだったんです もし皆さんが写真家たちをご存知ならば 遅れて来た思春期の典型的一例として 面白く例える事ができます 「ごめんなさい 取材をしにいかなければならないんです また戻ってきます」 それで決して戻ってはきません
そこで通訳者になぜ彼女は直に自分は死ぬと思っているのか尋ねました 病院につれってもいい? お医者さんにみせるため私が支払うことはできますか? 彼女はどんな援助も拒みました そこで外出したとき 通訳者に幾らかのお金を渡して頼みました 「また戻って来て 様子をみて」といって それからおばあさんに私の名刺を渡しました 「もしもあなたが本気でしたら 彼女のために家族を見つけます」 それから即座に11歳の息子をもつ ジョージア州のアトランタに住む親友に手紙を書きました その私の親友は もう一人子供がもてたらなあと ある日 うっかり言っていたので 私の友人のジーンとゲイルはおよそ一年もの間 私から連絡をとっていませんでした 私は突然電話して言いました「今、韓国にいて それでこのとんでもない少女にあったんだ」 「おばあさんは自分が病気だと考えているけど おばあさんも少女と一緒につれてくる必要があると思う」 それから 費用は私が支払うといいました。 私にはイメージができてたので まあとにかく 私は去りました 私の友人達は実際 彼女を養子にする事にとても興味を示していました 私は告げました「もしおばあさんに本当に喜んで彼女を養子にするよといったら 私は告げました「もしおばあさんに本当に喜んで彼女を養子にするよといったら おばあさんは死んでしまうかも知れない。 おばあさんと話をしてくるよ」 私の任務は休みだったので 2,3週間後に おばあさんと話をする事にしました
クリスマスの日 写真家のグループでバンコクにいると 1通の電報を受け取りました タイムマガジン社からで 韓国の誰かが死んで その子供を私に遺言として任せるということでした 思いがけない知らせでした 私が何を行っていたのか彼らに知らせていなかったですし 動転もしました とにかく韓国のヒョンスクの村に戻りました おばあさんは亡くなっていました 家は空っぽで 信じられないくらい冷え込んでいました ヒョンソクの居場所を知っている人は村には誰もいませんでした そのおばあさんは常に西洋人から彼女を隠していたからです おばあさんの私へのお願いも、彼らは全くわかりませんでした そしてついに彼女がかつて放課後毎日遊んでいた 親友のミョンソンを見つけました ミョンソンは私と通訳者に根負けしてついに ソウル郊外の住所を教えてくれました その住所に行き ドアを叩くと 男性が応えました ソウルのそんなによい地域ではなく 外は泥道でした 私がドアをたたくとヒョンソクが出て 彼女の目は血走っていて驚いている様でした 私を覚えていなかったのです 全くもって覚えていませんでした 男性がドアまできて韓国語で何か怒鳴りつけたようでした 通訳者に何を言ったのか確認すると 彼は、私が誰か知りたかったようです 「私は写真家だ」と伝えてもらいました 彼は、私が誰かは知っていて 何のために来たのか知りたかったようです 彼には、彼女のおばあちゃんから彼女の家族を 見つけるように頼まれたことを説明しました 彼には、自分は叔父で私に用はないから帰るように言われました
それでドアは閉められました 途方もなく寒い日で 考え始めたんです 「もし 僕が映画の脚本を書いているとしたら 映画の主人公はどうするだろう?」って そこでいってみました 「ここは寒いし、私は遠くからはるばるやってきたんですよ ちょっと入れてもらえませんか」 そこでいってみました 「ここは寒いし、私は遠くからはるばるやってきたんですよ ちょっと入れてもらえませんか」 するとその男はしぶしぶ私達を中に入れてくれ 私たちは床に腰掛けました そして私たちが話始めると 彼が何か怒鳴っているのが見え ヒョンスクがやって来て私たちに食べ物を運んできました それは私にシンデレラのようなものを想像させました とてつもなく素晴らしく頭がよく幸せな子供が この家族の奴隷となり とても引っ込みじあんになっている様子を 思い浮かべたんです ぞっとしました そして私が彼に話しかけるにつれて彼はますますよそよそしくなっていきました 私は韓国語が話せませんので 通訳を通してですが 話 始めました 「ヒョンスクに家族ができて本当にうれしいです 彼女のことをとても心配していました あなたのお母さんと 彼女の家族を見つけると約束していましたから あなた達が彼女の面倒をみると聞いてとても喜んでいます」 それから、私が一週間先の帰りの航空券を買っていること その間ダウンタウンのホテルに滞在すること を説明し 翌日のランチに誘いました 彼の英語の練習にもなる と付け加えて 彼についてもっと知ろうとして努めていました 私の滞在しているホテルでは、二人のアメラニアン人がいました 一人の少女は母親が売春婦で 彼女自身も売春婦でした もう一人、刑務所を出たり入ったりしている少年もいました 私は彼らに、ここを抜け出しアメリカに行けるチャンスのある少女の話をしました。 ただそれが彼女にとって良いことかどうかはわからないけど とも付け加えました 明日の昼食に誘い そこで あるおじさんに、ここのストリートをあるくのがどんなことか 人々に何て言われていて 生活の為に何をしているのか 話して欲しいと頼みました 彼女がここに居続けるとどうなるかを彼にわかって欲しい事を説明するために 明日来て欲しいことを頼みました
その二人は昼食にレストランにきたのですが 私達はレストランから放り出されました ヒョンスクのおじさんはどなり散らし ものすごい剣幕でした このことによりすべてが白紙に戻ってしまい どうすれば良いか考えました 彼がまた怒鳴り始めたので、通訳者に 彼を落ち着かせるように頼みました 通訳者によると 私が首からカメラをかけた裕福なアメリカ人たちで ずかずかと家に上がりこんできた印象を彼に与えたようです また、彼の姪を奴隷扱いしていると非難したと感じたようです 彼は言いました 「これは私の姪で 彼女を愛しているし 彼女は私の妹の娘だ 私をこんな風に責めるなんて お前達は何様なんだ?」 それに対して私は 「言っていることはわかります ですがここで起きていることは事実です 私はこのような子供たちをたくさんみてきています 私もあなたの姪を愛しています 彼女は並外れて特別な子供だと思っています もし、ヒョンスクと養子縁組を組みたいという人に会いたいのであれば ここまで来させます 私がわずかながらこの状況について知っている事は 彼女にあなたが望んでいるような 人生を送ってもらえる見込みは ほとんどないということです
まわりからは、将来の両親を紹介するなんて ばかげたことだと言われました 親戚のためにそんなに手を尽くしてくれる人はいないからです でも 彼はおばあちゃんの告別式に 私を招待してくれました そこでは、おばあちゃんの衣服や写真を 儀式の一部として燃やしていました この3ヵ月間での彼女の変わりようを見てください これはたぶん2月の初旬で 先ほどの写真は9月のものです これが、これらの話の中で出会った アメリカ海兵の神父で 75名の子供達と住んでいました 子供達の面倒を見るため3人の女性が彼のお手伝いをしていました ヒョンスクのおじさんには、 キーン神父に会って養子縁組の過程が どうなっているか見るように勧めました 伯父さんには こういったことは全て とても公明正大に行われている事を感じて欲しかったので
それで これがその孤児院へ向かう途中です この方がキーン神父です 彼はとにかく素晴らしい男性です 彼は韓国中からきた子供達と住み 子供達の為に家族を見つけていました これはヒョンソクに面談しているソーシャルワーカーです 今になっていつも考えるのですが 彼女はこういった類のものとは 全くもって無縁でした おばあちゃんが 村の賢い長老のような女性だったので 一日中人々がおばあちゃんを訪ねて 来ていたことに気がつきました 常に思い出すのは 彼らは村で比較的貧しい家族だったにもかかわらず 村で最も尊敬される家族のひとつでした それからあばあちゃんは村人達にヒョンスクを 彼女と同じように扱うように要求していたと思います ヒョンスクはキーン神父の所に残り 叔父は養子縁組が行われるまで 彼女が留まることに同意しました 彼は養子縁組に賛同してくれたんです
私が任務に出かけ その一週間後に帰ると キーン神父からヒョンスクについて相談をうけました キーン神父からヒョンスクについて相談をうけました 私をこの部屋につれてゆき、ドアを閉め 彼が言うには、この孤児院には75人の子供がいてたいへん騒がしい場所だそうです 3人の大人と75人の子供。そして各々の洋服など 3人の大人と75人の子供。そして各々の洋服など また彼はいいました「ここにきて2日目に彼女は 年長と年少の子供達の名前を残らずリストに書き出しました そして年長の子供達を年下の子供達にひとりづつ割り当てたんです それから彼女は仕事の担当表をつくりました それから彼女は仕事の担当表をつくりました 彼女は、キーン神父にも片付けるように言いました 誰が彼女を育てたのか知りませんが 彼女はこの孤児院を経営しているんですよ ここにきて3日しかたってないのに」 (笑い)
これは彼女が企画した映画の日で 子供達みんなが映画を見にいきました 養子となった沢山の子供達が 他の子供達に手紙を送ってくれました。そこには新しい家族との生活が どんな感じか教えてくれるんです だからそんな手紙がくるときはとても大騒ぎでした これは現在は孤児院で働いている女性で 彼女の息子は養子です ジーンとゲイルは私の最初の手紙を受け取った時点から 韓国語を習い始めました ヒョンソクが彼らの家族になるのを 心から歓迎したかったからです 私が旅から戻って来たとき キーン神父が伝えてくれた事のひとつは ヒョンソクがナターシャを自分の名前として選んだということ それはアメリカ空軍基地で彼女が見ていた ロッキーとブルウィンクルのアニメから由来していると思います これはすぐにでも解明したいです
私の友人ジーンは息子ティムとともに飛行機でやってきました ゲイルは来れませんでした それから彼らは辞書とにらめっこして多くの時間を過ごしました これはジーンが叔父さんに彼らの住むアトランタの場所を地図上で見せているところ これは伯父さんが養子縁組の書類にサインしているところ 私達はその夜を祝うためにディナーに出かけました 伯父さんは自分の家族の元へと帰ったので ナターシャとティムとジーンと私でディナーにでかけました ジーンがナターシャにナイフとフォークの使い方を教えて ナターシャがそういったけいこををしているところ 私達がホテルの部屋に戻った時 ジーンはナターシャにもアトランタがどこにあるのか見せていました これは私達の訪韓3日目の夜で 最初の晩は、私たちの隣部屋が子供達用の部屋でした
私はこの部屋に3ヵ月滞在していて 小さな15階立ての韓国のホテルでした 2日目の夜は子供達用の部屋はとりませんでした 私達が下に降りて孤児院の子供達と一緒に床で眠ったからです そして3日目の晩 夕食から戻って来て 写真でごらんの通り フロントにつくと フロント係の男性が言いました 「今夜は今の階で空いている部屋はありません 子供用に五階下の部屋でしたら空いています」 そこでジーンと私は互いに顔を見合わせて言いました 「11歳の子供達を5階下に寝させたくないよ」 彼の息子は寝袋をもっていたので床で寝るよ と言いました 私も寝袋をもっていましたので ティムと私は床で寝ました ナターシャとジーンは各々ベッドで眠り 子供達は倒れ込みました 3日間とても興奮していたからです
ベッドに横たわりながら ジーンと私は自分たちがいかにカッコイイか話始めました 自分たちが少女の命を救ったと話しました 私達はとにかくのぼせ思い上がっていました その部屋には、数ヶ月滞在していました その部屋には、数ヶ月滞在していました 韓国のホテルはいつもひどく暖房がかかっているので 滞在中はいつも窓を開けていました 夜中頃になるとホテルの暖房は消え 午前1時頃にはマイナス20度くらいに思える寒さになり 目が覚めます そんなことを毎晩していました 決まりきったように その日も午前一時 部屋は凍えそうでした 窓に近づくと外で人々が叫んでいる声がし 酔っぱらいが丁度出て来たに違いないと思ったんです 私は韓国語は話せませんが 声はわかります 怒りというより恐怖の声でした 窓を開けて外を見渡すと 炎がホテルの脇からたちこめていて 火事がおきていました ジーンのところまで急いで行き 彼を起こし ジーンを驚かさないように火事であることを教えました 煙と炎が11階の私達の窓にもやってきたんです そこで私達二人は何てことだと ただ取り乱しました ナターシャを起こそうとしましたが、彼女は話すこともできません 子供って一時間も寝ると、睡眠薬でも飲んだかのようにたいへんな状態でした 子供って一時間も寝ると、睡眠薬でも飲んだかのようにたいへんな状態でした 彼女は何も話せませんでした 彼の息子は、L.Lビーンのブーツをもっていて 私達が彼の靴ひもを結ぼうとしたことを覚えています そしてドアに行く為にそこまで走り ドアを開けるとそこはまるで溶鉱炉の内部を歩いている様な感じ 人々は叫び ガラスが割れる音と 何かがどしんと打ち付けるおかしな音 2秒で部屋全体が煙に包まれ ジーンは、振り返り「もうどうしようもない」と叫びました 彼が扉を閉めると 今度は部屋全体が煙にいっぱいに 私達はみな息がつまり 通気孔からも煙が充満し ドアの下では叫ぶ人々 ほんとに信じられないくらい 全くの大混乱だったことを覚えています 覚えているのはベッドのそばに座わりながら 二つの感情を抱いていました 1つは途方もない恐怖 ー神様どうか目を覚まさせて これはただの悪夢で 本当なわけがない どうか起こして下さい これは悪夢でなくちゃ もう一つは 桁外れの罪悪感 友達 その息子 ナターシャの人生に対し 自分が神のように振る舞っていたのですから 自分が思い上がった結果 人を傷つけ こうなるのだと とにかくひどく怯えて動揺していたのを覚えています 床に横たわっていたジーンは 「濡れタオルが必要だ」と言いだし 私は「何だって?」と尋ねました 彼は「濡れタオルが必要だ 煙で死んでしまうよ」と言いました そこで浴室へ急いでタオルをとりにいき 自分たちの顔と子供達の顔を覆いました そして「粘着テープを持っている?」とジーン 彼は、粘着テープを持っているか再度聞きました 私が「僕のスーツケースのどこかにある」と答えると 彼は「この煙は食い止めなければいけない それが俺たちにできる全てだ とにかく煙をとめなければ」と言いました ジーンがいてくれてラッキーでした それから二人で壁の空気孔にルームサービスのメニューをのせ ドアの下の隙間にはブランケットを詰め それから子供たちに空気をすわせる為窓際にいてもらい すると 私たちのホテルの向かいの右側に建てられた 一軒の新しい建物がみえました その建物には写真家たちがいて 人々がジャンプして移ってくるのを待っていました 結局11人の人が焼死し 5人の人が転落し命をおとし 他の人達は煙により窒息死しました そしておおよそ45分後 ドアを騒がしく叩くような音がありました そんな中 人々が韓国語で叫んでいました 覚えているのはナターシャが私たちにドアを開けさせなかったことですー 違いますね。私がドアを開けられなくしていました 部屋を防御するのにあまりにも時間をかけていたので それが誰なのかわからなかったし 何が目的か知りたくもありませんでした するとナターシャが彼らは消防士で私たちを助けようとしてると教えてくれました ドアを開けるのに激しく格闘している模様でした ともかく 12時間後に彼らは私たちをロビーへ救出してくれました ジーンはコートにくるんだ素手で酒棚を割り開けていましたし 人々は床に横たわっていました 恐ろしい経験をしました
12時間後、借りた車で予定通り ナターシャの村へと戻りました 私たちは口々に言いました「8時間前にホテルの火事で死にそうだったなんて 理解できる?」 人生はそれでも続いていくなんて不思議でしょうがなかったです ナターシャは全ての村人たちに彼女の兄を紹介したがりました そして私たちが訪ねたその日は ある60歳の男性の誕生日だったのです この人が60歳になりました そこで ナターシャはこの村からアメリカに渡った 初めての村人だったので、双方のお祝いとなりました これは温室のテントです これは年長者たちが ジーンに踊りを教えています 私たちはたくさんの米酒を飲み かなり酔っぱらいました 信じられないことでした
これはジーンとティムが帰国する前の最後の写真です 養子縁組を経験した人々はまとまるまでに1年はかかるといっていました 一年で何ができるってんでしょう? 私は韓国とアメリカ両方で使える公用の名前を見つけ出し 彼らを撮影し すぐに有名になるんだからといってました この本が出版されたあかつきには 4ヶ月後 養子縁組の書類が発行されました 孤児院のみんなにお別れを言うときの写真です これはキーン神父とナターシャがバス停にいるところ おばさんが空港にいるところ 私は長年にわたってキャセイパシフィック航空から素晴らしい提携をうけていて それは私が写真をとる見返りに彼らの飛行機には無料で乗れるというものでした それはまるで究極の特典でした このパイロットは以前私を補助いすに座らせてくれました これがどれくらい前の写真か物語っていますよね これはトライスター機で、ナターシャは実際補助イスに座らせてもらいました パイロットのジェフは ナターシャに会った後 あの孤児院から一人養子にとりました
これは28時間後のアトランタで それはとても長いフライトでした びっくりすることに ゲイル ナターシャの新しい母親は3日前に 娘を出産するために家をあけていました そうでうね もしみなさんがこの脚本を書いていたら 脚本を違う風に書かないと駄目だとかいうでしょうね これはナターシャに新しい従兄弟 叔父 叔母を会わせている初めての夜です ジーンとゲイルはアトランタのみんなを知っていて 知りうる中で最も社交的なカップルです この時点ではキーン神父が教えてくれた 少しの言葉しか英語を話せませんした これはある晩のカイリー 彼女の妹で今は医者です これは私たちがアトランタについたときのナターシャと私の取り決めで 彼女は私のあごひげを切っています 彼女はわたしのひげがどうしても好きではありませんでした
彼女は3ヶ月英語を学びました 年相応に中学1年生になったナターシャ 初めての国家斉唱 彼女の料理の先生 ナターシャが教えてくれたのですが たくさんの子供たちが 話しかけても 彼女は答えられなかったので戸惑っていたそうです 当初は彼女があまり英語が話せないと気がつかなかったんですね でも 私が観察していて気がついたのは 彼女がリーダーだったこと そしてほんとにあっという間に人気者になっていきました それでは あの写真を思い出してください はじめの方で彼女はおばあさんによく似ていましたよね? 人々はいつもナターシャが現在の母親 ゲイルにそっくりだと言っていました これは初めてのサッカーの試合での接戦の時だったと思います それからカイリーはまるでナターシャ自身の子供のようでした 洗礼をうけるナターシャ 子供を養子にとったたくさんの親たちは 実際にその子供たちの過去の歴史を消そうとします ゲイルとジーンは全く逆でした 二人は韓国語を学び 韓国の洋服を買ってきました それどころかジーンは台所にちょっとしたタイルまで作り それはそのむかし一人に美しい少女が韓国丘からやってきて その後アトランタで幸せにくらしたというものです
ナターシャはこの写真を嫌っています 彼女の最初の仕事 バーガーキングで働いたお金で 彼女は 鮮赤色のカルマンギアの車を買いました チアリーダーのキャプテンとして 美人コンテスト 毎年クリスマスカードを作っていました ジーンは今まで欠かさずそのカードを保管し続けています
コダック社が韓国での通訳者としてナターシャを雇いました ナターシャの未来の夫 ジェフはキャノンカメラで働いていて オリンピック村でナターシャに出会ったのです これえは韓国からも戻る最初の旅で 彼女の叔父さんです 義理の妹 彼女が村に帰った時の 親友のお母さん これをみるといつもアニーホールのようなマニッシュないでたちだと思います あの だたこれらの写真を眺めているだけでも本当に面白くって 裏庭にいる彼女のお母さんです ナターシャの結婚式の日 ジーンは少し年をとってみえます これはシドニーで 数日後に3歳の誕生日を迎えます イヴァン
ナターシャ ちょっとの間 出て来て 皆さんにあいさつしてくれないかな? (拍手) ナターシャは実は 私がこの話をするのを聞いたことはないんです その 写真を一緒に眺めていたことはあるんですけど
ナターシャ: 写真は何百万回もみてきましたが 今日初めて 実際に彼が最初から終わりまで話すのを見ました 泣き出しました
リック:彼女が私にいいたいことは40個くらいあるだろうね 『そこは正確ではないわ』って ナターシャ:後で それは後で話すわ (笑い)
You can share this video by copying this HTML to your clipboard and pasting into your blog or web page. This video will play with subtitles.
You either have JavaScript turned off or have an old version of the Adobe Flash Player. To view this rating widget you
need to get the latest Flash player.
If your browser allows only "trusted sites" to execute Javascript, you should add the "googleapis.com" domain to your whitelist to allow our Flash detection to work properly.
Got an idea, question, or debate inspired by this talk? Start a TED Conversation.
写真家のリック・スモーランが一忘れられない 一人のアメラジアン人の少女、運命的な写真、予想外な養子縁組までの冒険物語を語ります。
Rick Smolan is the co-founder of the America 24/7 and Day in the Life photography series -- and a natural storyteller in many media. His latest books are America at Home and Blue Planet Run. Full bio »
Translated into Japanese by Yoshiko U
Reviewed by Jun Kaneko
Comments? Please email the translators above.
18:35 Posted: Jan 2007
Views 267,385 | Comments 53
11:14 Posted: Jun 2008
Views 866,283 | Comments 199
14:53 Posted: Aug 2008
Views 607,852 | Comments 62
Just follow the guidelines outlined under our Creative Commons license.
This comment will be attributed to . Not ? Sign Out.